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第15話目◇長編『下がり葉の猫』

06 05, 2015
7.


 備え付けのタオルで濡れた手を拭く。台所と居間の掃除はようやく片がついた。湯が沸く薬缶の火を止め、文乃は軽く一息いれることにした。
「茅世、」
 台所から愛しい名を呼ぶが、いつも響かせてくれる足音は聞こえない。文乃の声が遠すぎたせいかもしれなかった。普段この時間帯は、どこを歩くにも文乃にまとわりついている茅世だ。しかし最近は、急激な気温の下降に嫌気が差したのか居間にあたる六畳間から離れない。それを少し寂しく思いながら、文乃は割烹着をはずして廊下へ出た。
「茅世、どこにいるの? 」
 家はしんと静まっている。六畳間は最初に掃除をした場所だったから、早々とコタツの中に籠もっているのかもしれない。そう思い立った文乃は、引き戸を開けて部屋に入った。どこか違和感を持ちながらコタツ布団をめくったが中身は空洞だ。暖房のスイッチすら入っていない。
「どこ行ったのかしら」
 茅世の姿が見られないが、屋内にいるのは確かなはずである。自分から屋外へは滅多に出ようとしない子だ。あの子が好んで向かうところは、居間と台所、寝室の三カ所くらいだった。文乃は寝室にいるだろうと算段して、名を呼びながら二階へ上がる。しかし、寝室の掛け布団を取り払ったところで見つけることはできなかった。
 茅世は、文乃の声にかならずなんらかのリアクションを返してくる子だ。反応を見せないのは寝ているときくらいで、その場所もある程度決まっている。文乃は首をかしげながら、憶測でベランダへ足を運ぶ。二階は二間と広いベランダが面積を広げていた。庭が猫の額ほどしかない分、ベランダは広い。祖父は生前、ベランダに盆栽置き場をつくっていた。その名残が、ベランダの端にうっすら跡として残っている。
 干した洗濯物を避けて見回ったが茅世はいない。ひなたぼっこでもしているのかと思えば、そうでもないようだ。文乃は家屋内で思いつく場所をすべて見渡したが、茅世を見つけることはできなかった。
 ベランダから、敷地内外を眺めた文乃は少し心配になってきていた。彼女は小走りで一階に戻り、玄関を出る。家の周りは隣家の塀に挟まれているが、人が通り抜けることは可能だ。茅世ならば容易に歩き回れる狭さである。しかしながら、通常の茅世ならば外に出ることを嫌がる。文乃が催促しても嫌がって逃げていく。猫の縄ばり争いに巻き込まれるのが嫌なのだろう。この家にいるかぎりは、確かに安全なのだ。
 だが、その家屋から茅世がいなくなった。文乃は家の周囲をぐるりとめぐって名を呼んだ。家内にいるとしても、いるところは限られている。クローゼットや押し入れの中に隠れるような悪戯をする子でもなく、文乃から逃げ回って遊ぶような子でもない。文乃と実家に住んでいた頃から、そうした遊び方をしてはいなかった。それに猫の年齢に換算すれば、平均寿命に至るほどの老猫である。
 文乃は、試しに道のほうへ出てみることにした。近所を歩いてみて、見つからないようであればまた家の中を探そう。彼女はそう考えて再度玄関口を開き、靴箱の上にある鍵を取った。そして、引き戸と鍵をしっかり閉めて家から離れる。
 茅世が本当に外へ出たのかはわからない。しかし、家が好きな子とはいえ、屋外へ単独で出る可能性は常にあった。外出を制限していたわけではないのだ。幽閉や軟禁をしているわけでもない。単独で外に出ることは少々危険なことではあるが、それを言い出したらキリがないのだ。家の中も火や水を多量に使う危険なスポットは多いし、文乃もいちいち茅世の歩くところに付き合う余裕はない。気をつけなければならないのは、耳と尻尾だけである。
 実家にいたときから長きに渡って茅世と共に生活しているが、文乃でも茅世の考えていることがわからないときはたくさんあった。元から種が違うのだから、思考が読めなくても仕方がない。逆にあの子のほうが、文乃の思考、行動をよく観察しているのかもしれないくらいだ。
 文乃はうろうろとあたりを見回しながら、スーパーに向かう道の角を曲がった。車が比較的よく通る路地だ。その少し先で、近所の人たちが数人集まっているのが視界に入った。文乃は気になって焦点をあわせた。
 全員が小さく輪になって下を向いている。アスファルトには水のようなものが溜まっていた。彼女はより近づいて、それがなにかすぐに気がついた。文乃は途端に駆け出していた。
 信じたくなかった。水溜まりではなく血だ。そして、中央に横たわる猫がいた。
「チセ、うそ、チセ、」
 嘘だと思いたい。うまく走れない着物を、今はじめて憎いと思った。あの子の毛並みは、灰色と茶色が部位によって妙なグラディーションをつくる、不思議な色合いをしている。だから、簡単にわかるのだ。横たわる猫は、その色をしていた。
「やめて、うそ、うそよ、チセッ! チセッ! 」
 文乃は、たどり着いた。横たわる彼女の前で、声にならない叫びをあげた。



「チセッ! 」
 自分の発した声に文乃は飛び起きた。なにが起きてしまったのかわからず、周囲を見渡す。なにも起きていなかった。夢から目を覚ましただけだ。
「ゆめ、夢か、よかったあ」
 文乃は朝から大きなため息をついた。信じられないほどおぞましい悪夢を見ていたのだ。状況を把握できた文乃は、もう一度大きなため息を吐いて顔を手で覆った。
「最悪な初夢じゃない」
 いつも一緒に寝ている茅世は、今日ここにはいない。現在文乃がいる部屋は、両親の住む家の客間だった。元旦は顔を見せなさいね、という母親の言葉に従って一夜をベッドで明かしたのだ。去年は元旦に少し顔を見せた程度だったのだから、今年は一泊しておかなければ両親たちに後でなにを言われるかわからない。
 このところテンションの低い茅世を、元旦から一人ぽっちにしてしまうことに、文乃は大いに引け目を感じていた。しかし彼女は裏腹に、気にしてほしくない素振りで文乃に帰省を促した。元旦の朝から冴えない頭でいたが、昼食だけは茅世と一緒に摂って実家に向かった。茅世には夕食と明日の食べ物として、おにぎりやおせちの残り、果物を置いている。茅世を残した外泊は過去に数度行なったこともあるから、食事や一人きりの就寝は茅世だけでも問題なくこなせているだろう。おそらく、むやみに屋外へでることもはずである。そう思ったものの、今しがた見た夢のせいで不安が倍増する。
 実際に茅世はこの前、単独で庭へ出ていた。誰かから春紫苑をもらったと言ったのだから、敷地外に出たということだろう。文乃の住む家には、春紫苑自体植えられていない。どういった経路で泥まみれになったかも謎に包まれたままだ。
 そもそも、家の鍵は閉まっていたのだ。身軽な茅世は窓かベランダから出たのかもしれない。それ以前に、文乃宅に幼女が独りで出入りしていると近所に知られれば、どうのような事態に進展していくのかは定かではなかった。単独行動を規制すべきか悩む。しかし、先にスペアキーのことを茅世には伝えておいたほうがいいのかもしれない。異形だとしても、ある程度の見た目と考え方は人間と同じである。人に知られてはいけないのは、文乃と茅世の関係を疑問に思えるくらい、彼女たちに近しい人間たちだけだ。それこそ、文乃を昔からよく知る人間には知られたくなかった。嘘をつくにも説明するにも、ややこしくなるからだ。本当は、茅世の自由を尊重したいと文乃は思う。
 だが、そう思うことができるのは、茅世が元々家が好きで外界にまったく興味がないからだということもわかっていた。彼女が外を好きになったら、家の中で大部分の日々を過ごすことが嫌になったら……文乃は別のことを思うはずである。
 ここ一週間以上、茅世の存在をどう扱うべきか考え通している。そのせいで、悪い夢を見てしまったのかもしれなかった。少しずつ、今までと同じように行かない状況に進んでいる。一年半以上、茅世と文乃は二人の世界で生活していた。今にして思えば、それはとても良くできていた状態だったのだ。だが、その頃に後戻りするのは難しい。文乃の中に予定調和で過ごすのではなく、前に進みたい気持ちが芽生えていた。チャンスには逆らいたくない。
 どちらにせよ、物事が良いほうに向いてくれるのならば問題はない。しかし、悪いほうに転がったとき、傷つくのは文乃よりも茅世なのだろう。彼女を不幸にしたくない。特に初夢のように死なれるのは、文乃にとって一番堪える。あってはならないことだった。
 文乃は、この悪夢を客観的に反芻し直す。よくよく考えれば、今見た悪夢は正夢になることはない内容だった。情景や雰囲気が、明らかに過去のものだったからだ。文乃がまだ家を移り換えたばかりで、人間型の茅世ではなく、長年連れ添った飼い猫のチセがいた。
 最初に違和感があったのは、ブラウン管のテレビがあった居間である。テレビは文乃がこの家に住んで、最後に新調したものだった。そのときはすでに猫のチセではなく、今の茅世が住んでいたのだから、あの夢が未来に起こらないのは確かだった。つまり、情景が実家から連れてきた直後の頃に状況がそっくりだったのである。
 当時の文乃は着物を普段着にしようと奮闘し、毎日が片づけものと教室開講準備に追われていた。大掃除をするときですら、できるかぎり着物を着てしていたのだから、今にして思えば愚かなものだったと文乃は思う。やりにくいのを無理に着ていたわけだ。今ならば、素直に洋装となって大掃除をするだろう。
 文乃は勤め先を辞めたばかりで、気が張っていた。同時に祖母と住む家を交換したのだから、気持ちに余裕はなかったのだ。そうしたときに、家へ連れてきた飼い猫のチセがいなくなった。文乃は家の片づけを放棄して、長い時間をチセ探索に要した。そのせいで、この周辺の土地感覚が身に付いたことは皮肉な結果だ。
 猫のチセは今見た夢のように、車にひかれて亡くなったわけではない。生きているか死んでいるかもわからない。現在も、見つからないままだ。そして、チセがいなくなって半月も経たない春の午後に、人と猫の合間にいる女の子と出会った。彼女は開口一番で「ちせ」と名乗った。だから、文乃は猫だったチセが変身して茅世になったと思っている。そう思うしかない。
 初夢は、過去の事実からも異なっていた。正夢にはならないだろう。しかし、後味があまりにも悪かった。二度と見たくない夢だと思いながら、文乃はベッドから足を降ろす。洋服はバッグの中に積めてある。文乃の荷物はすべて居間住む家に置いているのため、泊まりのたびに服を持参していた。
 自身の部屋は祖母に譲っており、この客間は元弟の部屋だ。彼は今回の正月を海外で過ごし、翌週の三連休にこちらへ顔見せに来るという。弟から先にそう連絡があった手前、日帰りで茅世の元には戻れなくなったのである。文乃は掛け時計で時間を確認してボストンバッグを開けた。朝八時を少しすぎた家は、一階からにぎやかなテレビ音が響いている。リビングへ向かうための着替えを取り出した。
 元旦から実家にいるものの、新年のカウントダウンを過ごした場所はいつも住む元祖母の家だ。前回は茅世とのんびり過ごしたが、今回の大晦日は夜遅くに由実子が来た。
 由実子は、この間の自宅訪問で茅世の存在を知ってしまった。由実子は不審に思うことなく茅世を気に入ってくれたようで、距離感を計りながら常に気にかけていた。茅世はべたべた触られることがあまり好きではない。それを由実子はすぐ察したのだろう。彼女の持ってきた手土産の練りきりは、茅世の目と胃を満足させた。茅世も由実子に興味を持ってくれたようだ。由実子が夕食中に、新年をここで迎えたいと言い出したことにも、茅世は大きく頷いていた。
 今頃、茅世もそれを後悔しているのだろう。初日の出を過ぎても、彼女の表情は沈んだままだった。文乃も、由実子を見直していたことを前言撤回していた。おそらく茅世は由実子を恐がってしばらく近寄らないはずだ。
 新年がはじまる二時間前に、由実子は文乃宅を訪れた。彼女は誰かのコンサートか年末フェスかなにかを経由してきたらしい。すでに、ほろ酔いになるくらいアルコールを摂取していた。由実子が酒に強いのは、文乃も知っている。大晦日も動き回って遊ぶ彼女は手土産を持ってきていた。日本酒とつまみ、そして忙しい最中に旅行をしたという手土産の郷土まんじゅうである。文乃は彼女の年中師走のようなアクティブさに呆れつつ、それを受け取った。
 文乃も年越し直前は慌ただしい。年越しそばの準備からあるからだ。コタツに入ってテレビを見る由実子と茅世をよそに、文乃は台所と居間を行ったり来たりと忙しかった。その間に、由実子は二合分の酒を新たに飲んで、茅世にからむようになっていた。小袖を着た幼女の触り心地が気になったのだろう。酒くさくなった由実子に、茅世は困った顔をしていたが、手や腕を触られることに抵抗はしていなかった。元々由実子は初対面で茅世の信頼を勝ち取っていたのだ。
 準備できた年越しそばをお盆に無理矢理三つ置いたのが、新年にさしかかる一五分前だ。文乃が少しお酒をいただこうと思いながら開けっ放しの六畳間を廊下から見て、重いお盆を落としそうになった。
 由実子が、茅世の帽子を取っていたのである。茅世が片耳だけでも隠そうと小さな手で押さえ、由実子が奪った帽子にもう片方の手を伸ばしている。
「由実子、返して」
 茅世の泣く寸前の表情だった。
「やだ。返さないもん。だって取ったほうがかわいいじゃん」
 由実子はそう言い返して、帽子をより遠くに隠す。彼女は完全に酔っていた。しかも、目の前の茅世の耳が特異であることにすら気づいていない。むしろ、その耳を触って「ここすごくかわいい。気持ちいい毛並みだねえ」と、茅世を褒めていた。
 文乃は二人を引き離そうと制したが、酔っぱらった人間を正すことなど不可能に近い。結局、悪酔いした由実子になすがままにされ、文乃と茅世の二人は顔面蒼白のまま新年を迎えてしまったのである。翌朝の由実子は、年越しの記憶をほとんど消したまま、新幹線で実家に帰省するからと早々爽やかに家を出ていった。一方、残された二人はまったく忘年できず、自己嫌悪と反省会を新年初日から行なったのである。
 文乃の家でアルコールを摂取することは禁止となった。由実子が出入り禁止にならなかっただけ、懐は広い二人であるといえる。
 由実子は茅世が持つ耳の特異さを、まったく覚えていなかった。運が良かったのかはわからない。しかし、いろいろ諭したかったことが、叶わなくなったのは事実だ。茅世がなぜ常に帽子を被っているのかといった、文乃たちが答えに窮することを言われる可能性は少なくないということだろう。由実子に訴えたたかったわだかまりを、文乃は仕方なくすべて飲み込んだ。後々さりげなく言えばいいことだろう。
 そうでなくても、茅世は最近気持ちの浮き沈みが激しい。元旦は特に、由実子のせいですっかり表情が暗くなってしまっていた。帰りがけに途中で開いているお菓子屋を探して、甘菓子の手土産を持っていったほうがいいはずだ。
 文乃にとっても茅世の帽子が抜き取られた件は、心臓が口から飛び出そうなほど驚いた事件だった。当分一緒に外へ出ようと茅世を促すことは慎もうと思ったほどである。二度と起きてほしくない。戒めにはちょうどよかったのかもしれない。
 文乃は持ってきていた服に着替えて階段を降りる。洗面台で洗顔をしていたところで、パジャマ姿の父親がやってきた。タオルを取り、おはよう、と互いに声をかけて場を譲る。化粧をするのは食事の後でいい。
「お父さん、私、夕食前にあっち戻ろうと思うんだけど」
 洗顔を終えた父親に声をかける。娘の提案を、彼は気軽に了解した。
「おお、いいんじゃないのか。文乃は本当に好きだな、あの家」
「うん、けっこう快適よ」
「そうか。そうは思えんけどなあ」
 父親も祖母の家で若い頃に数年ほど住んでいた。彼は文乃の母親と結婚してから、この一軒家を購入したのだ。駐車場は二台分ついている。
「お父さんにはそうかもしれないけど。先リビング行ってるね」
 文乃は頷いて笑むと、洗面所を離れた。家族仲は良いほうだ。本日の昼食は娘の手料理と決まっている。家にある食材は母親から聞いていたが、調理前に必要分は流し台に出す予定だ。足りないものをすぐ近くのスーパーまで買いに行かなければならない。実家近所のスーパーは本日から営業を開始しており、いつも夜遅くまでやっている。会社員時代は本当に重宝したものだ。
 キッチンに赴くと、母親がすでに朝食の用意をしていた。おせちの残りにスクランブルエッグとパンを出すつもりのようだ。和洋折衷に抵抗がないらしく、文乃は挨拶とともに渡されたおせちの重箱をダイニングテーブルに置いた。文乃の実家は椅子に座って食事を取るスタイルが基本だ。コタツがあるとだらけてしまう、と、母親が自らを戒めているためだ。
「お母さん、私夕飯までいたほうがいい? 」
「別に、午後に帰っても問題ないわよ。フミちゃん、これもテーブルに置いて」
「はい。そうしたら、三時くらいに家出るね。それで飲み物は? 」
「紅茶かコーヒーかしら。おばあちゃんは後で緑茶ね、フミちゃん」
「したら、コーヒね」
 朝ご飯の準備で忙しい母親は、父親同様あっさり了承してくれた。母親とは時おり考え方の相違で一悶着あるが、この年始はお互い良好な関係である。双方まだ、文乃の仕事話や見合い話を口に出していない。これから出てくる話題だろうと文乃は腹をくくっていた。朝食中か昼食中はじまるのか。
 昨日は帰省してから夕食に至るまで、話題が海外旅行に出た弟と母親と祖母の近況報告に終始していた。弟の話から文乃は友人である麻紀乃の話を持ち出し、海外のことで話が盛り上がったのだ。文乃よりも海外の事情に詳しい両親から、麻紀乃のいる国の説明を受けるのは不思議な感じだった。本来娘が親に教えるものなのだろう。しかし文乃は海外に興味がないから仕方がない。父親が、弟のように学生時代に一度海外で短期ホームステイすれば良い経験になっただろう、と言ってくれたが、文乃はいまだにそう思えず言葉を濁した。短期間で海外の生活や文化が知れるとも思えない。
 母親は、大学時代からの友人である麻紀乃のことを知っている。麻紀乃があちらの国で元気にしていることを話すと微笑みをくれた。電話をしたけど時差の関係で無理だったというエピソードを会話に盛り込めば、そんな基本的なことが抜けていてどうするのと両親に呆れられた。わからないよねえ、と同意してくれたのは祖母である。おそらく時差ということもいまいち意味が把握できていないだろう。祖母も外国にまったく興味がないのだ。むしろ、恐ろしい場所だという認識がある。弟が海外旅行に行くというと、祖母はいつも反対する。だから直前まで彼女には伝えられないのだ。
 テレビ番組は、正月特番が続いている。いつも番組のチャンネルを変えるのは祖母だ。彼女はまだ二階の自室からやってきていない。そろそろ来る頃だ。ガスコンロにある薬缶の蓋を開ける。むわっと蒸気があがるところを見れば、湯はすでに沸いていたようだ。
「それ沸いてるわよ。10分くらい経ったかしら」
「わかった。じゃあ、このまま使うね」
 母親の代わりに文乃がコーヒードリップの用意をする。挽いたコーヒー豆を多めに入れて、ミルクとあわせるのが倉橋家洋朝食の定番だ。
「フミちゃん、おはよう。白湯くれない? 」
 祖母がリビングに来て、孫に声をかける。
「おはよう。ちょっと待ってね」
 すぐに母親も祖母と朝の挨拶をかわす。よく寝れたかどうかの話を進めて先に椅子へ座る彼女たちの前に、白湯を置いた。電子レンジでミルクを温めている間に、コーヒーの抽出が終わった。
 父親が寝具から着替えてリビングへやってきた。文乃はコーヒーポットとカップを用意して席に着く。いただきますの声にあわせてコーヒーを注ぐ。家族四人での食事に文乃は毎度不思議な気持ちを抱き、そして独りきりの茅世を思うのだ。

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