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NO.22 トランスオレンジ

02 19, 2011

「うん、ほんま見送くらんでええから。も、空港行かなあかんし。また会えるやろ。ありがとう、また連絡するけん。うん、ほしたら、またね」
 菜摘はそうして、ダイアル回線を遮断した。マンションに備え付けられていた受話器をおさめて手を放す。エントランスの応対用として電話機とセットになっていた代物だ。もう二度と、使うことはない。
 フローリングのリビングに、左から橙色の光がきらきらと降りている。曇り空の多い三月が続いていたせいか、今日の快晴はとても印象的だった。
 菜摘が振り向けば、がらんどうのリビングが広がっていた。はじめて、この家に足を踏み入れたときのことを彼女は思い出す。マンションは新築で、菜摘の家族ははじめての入居者だった。右手奥にはキッチン、リビングをまたいで和室があって、玄関に通じる通路はリビングの中央からつながっている。先にはさらにふたつ部屋があって、内のひとつが菜摘と弟の部屋だった。角部屋の3LDKだ。菜摘は、ここに家族と丸一年住んだ。
「なっちゃん、友達は見送りにくるの? そろそろ経たなきゃいけないんだけど、」
 母親が、各部屋の最終確認をしながら戻ってきた。弟と父親は先にエントランスへ降りている。これから、父親だけを単身この街に残して上京する。親たちは、菜摘が中学生へ進学する前に、父親の故郷である東京都に戻ると決めていた。それは菜摘も早々から知っていた。転勤の多い生活に、母子が先がけてピリオドを打つのだ。
「トモダチは来んよ。今電話で話しよったから」
「それで、本当にいいの? もう会わないかもしれないのに」
「ええんよ、もう」
 菜摘は、母親を安心させるように微笑んだ。
 はじめから、この地に長く住まないことを彼女は知っていた。長くて三年程度しか居られない土地だろうと、はじめから腹をくくっていた。幼い頃から、菜摘は何度も引っ越しを繰り返してきたのだ。引っ越しをしてしまえば、当分はこの地に残った友人たちと会うことができないことは確実だった。
 それに、連絡を取り合ったとしても、小学校時代の一年だけ仲良くしていた菜摘のことなど、忘れてしまうのだ。菜摘は事実、数回にわたる転勤からそのことをよく承知していた。携帯電話を持っていても、パソコンのメールのやり取りをしても、結果は同じことだ。もっとも、新しい生活基盤をつくることに菜摘自身が精一杯になってしまうのだ。元住んでいた土地とのつながりを持続させることは、意識をしたところで難しい。目先の生活に慣れることが第一なのだから、結局後回しになってしまうし、その余力がないのが常だった。
 友達にとってはいずれ、自分の存在は過去のものとなる。それ以上に、菜摘自身がクラスメイトのことを忘れてしまう。
 どれだけ記憶力に自信のある菜摘でも、クラスメイトや友達の名前が思い出せなくなることはよくあった。引っ越しに慣れない頃は、それが本当に悔しかった。携帯電話にたくさんの友人の連絡先を詰め込んだ。しかしそれも無駄なことだと、菜摘は学年を上がるほどに悟っていた。
 引っ越しを繰り返すようになってから、ねだった携帯電話もこの地で解約した。今回の引っ越しが、事実上最後の引っ越しになるからだ。親は東京に一軒家を買った。菜摘は、一連の生活にひとつの終止符を打つことを望んでいた。
 リビングに佇む菜摘をよそに、母親は窓を開けてベランダへ出た。肌寒い風が生活臭を一掃する。菜摘は開けた窓を眺めながら壁に寄りかかる。元はこの場所にソファーがあって、背の上に掛け時計がされてあった。
 今日という日は、この地に住むことになってから、いつかは訪れる日だった。来たところも行くところも、風景や方言はまったく違う。引越しのたび、環境に慣れ折り合いをつける努力をしながら、離れる日に向けた心の準備も忘れなかった。
 別れは何度繰り返しても辛い。出逢いがあれば、かならず別れはある。別離の辛さに心をきしませることも、寂しくて泣くことも、菜摘にはもうコリゴリだった。果たされない約束も、したくなかった。感傷はできるだけ取り除いておきたかった。
 友人たちの見送りを断ったのも、そうした結果だ。また会えると、皆に嘘ぶいた。見送られるほど、せつないことはないのだ。友達に泣かれたくもなかったし、泣きたくなってしまうことは自分の弱さにつながっていると菜摘は思っていた。平静を保っていたかった。それに、長く居ない土地だとわかった上で、友達をつくり接してきたのだ。諦観をはじめからこめた付き合いをしていた自分は、友人たちに見送られる資格はない。そこまで彼女は考えていた。
 親たちに、かわいくない子どもだと称される理由も、菜摘はよくわかっていた。親の転勤が彼女をそう育てたのだ。しかし、それら自体を彼女が恨むつもりはない。転勤生活を否定することは、出会った人たちすべてを否定することになるからだ。
 菜摘は、ただすべてを静かに受け入れていた。そして他人の手を借りず、上手に対処する方法を身につけていた。それらは総じて、長い転勤生活で培ってしまった菜摘の早すぎる達観だった。
「もうそろそろ出なきゃいけないし、隣に最後の挨拶してくるけど、なっちゃんも来る? 」
 室内に戻った母親が、靴を手にして菜摘に声をかける。菜摘は壁から背を離して、窓の閉じる音を聞いた。
「いい。うち、もうちょいここにいる。おかあさん、挨拶やり終わったら、玄関から呼んでくれんかな? 」
 標準語を意識して返答すれば、母親は「わかったわ。終わったら呼びに来るね」と、リビングを抜けた。バタン、と、扉が閉まる音がする。
「さて、と」
 一人残された家で、菜摘は耳を澄ませた。聞こえるのは、他住まいのちいさな物音だけだ。引っ越し当日にしては、波の立たないいつも通りの心持ちに、菜摘は人知れず満足していた。思い残すことがないことは、少しだけ大人になった気分にもさせてくれた。
 ただ、ひとつだけ、気かがりなことがあった。
 それはまだ、誰にも話していない事柄だった。菜摘はもう一度ゆっくり部屋を見渡した。そして廊下に足を向ける。
 まだ、おるんかな。
 そう彼女が思いながら、玄関まで続くフローリングの中程まで進む。廊下をはさんで和室の向かいには、トイレと脱衣所があった。菜摘は脱衣所を覗く。スイッチを押せば、暖色の灯りがついた。奥には、毎日使っていたバスルームがある。
 こんなんじゃ、わからんな。
 眉を寄せて心の中でつぶやいた菜摘は、脱衣所に足を踏み入れることにした。閉じられたバスルームの灯りもつける。ドアにはめられた、変哲のないプラスチックの曇りガラスから光が射した。
 この曇りガラスには、いつも、ちいさな手形が浮かび上がっていた。
 風呂場に湯気が立てば、かならず同じところに手形が浮かび上がっていた。それは、菜摘だけがよく知っていたことだ。
 誰の手形かは、わからない。はじめは、弟が湯気で曇ったガラスに手形をつけたのだろう、と、彼女は思っていた。しかし、それは違っていたのだ。菜摘が風呂に入れるたび、決まって手形が曇りガラスについている。ガラスに湯をかけても、ちいさな手形は模様のように再度浮かび上がった。手を重ねたこともある。菜摘より二回りちいさかった。彼女は親たちに、バスルームのガラスに浮かび上がる手形を知っているか、と、さりげなく訊いたこともある。親たちの答えは、ノーだった。
 菜摘はそれを聞いてから、風呂に入ることが怖くなった。この手形が家族の誰のものでもなく、菜摘が入浴するときだけ浮かび上がっていることを知ったからだ。気持ち悪かった。本当に、怖くてたまらなかったのだ。
 きっと霊がこの家におるんやわ。子どもの霊がお風呂場に住んどって、うちがはいったときだけ、手形つけよるんやわ! 
 彼女はそう本気で思っていた。幾度に渡る転勤で、いろいろなタイプの家に住んだことがある菜摘でも、ここまであからさまな怪奇現象ははじめてだった。このせいで、長い期間この家のバスルームには、必要でないかぎり立ち入らないようにしていたのだ。
 しかし、風呂場は得てして毎晩使う場所だった。菜摘がどれだけ入浴をしぶっても、母親は聞く耳を持たなかった。そして毎日のように、ちいさな手形は湯気を輪郭にして浮かび上がった。菜摘は風呂に入るたび、緊張した。浮かんでいる手形を確認した後は、窓を見ないようにしていた。救いだったのは、それ以外に怪奇的な事象は起こらなかったことだ。菜摘はこの家で、金縛りに遭ったこともなければ、ポルターガイストに遭遇したこともない。
 ただ、菜摘に気づいてほしいように、毎晩手のかたちを見せるだけだった。それ以外は、無害だった。数ヶ月も経てば、菜摘にも余裕がでてくるようになり、手の大きさから弟よりも幼い霊なのだろうと思うようにもなった。
 きっとこの子は、さみしいんや。
 そうだから、長女である菜摘を姉のように感じて、存在を知らせるのだ。彼女は、そう思うようにもなっていた。
 今、菜摘はしゃがみこんで、その窓と対峙していた。湯気がないから、手形は現れていない。けれど、菜摘はいつも現れていた位置を覚えている。
 手を這わせた。
「なあ、最後なんや」
 この手形とも、今日が最後の別れとなる。この子は、菜摘がもうこのバスルームを使わないことを理解しているのだろうか。二度と菜摘たちと会えないことをわかっているのだろうか。
 この子は、また、一人になるんかな。
 ただそれが、菜摘にとっての唯一の気がかりだった。この子は今晩から、物音ひとつしなくなったがらんどうの部屋に置き去りにされるのだ。菜摘は、さみしかったらうちについて来てええよ、と心の中で思った。おそらく、この子がここから離れることも動くことも出来ないことは、なんとなくわかっていた。
 せめて、この部屋にまた誰か、はよう住んでくれんかな。ほうしたら、この子はまた一人にならんで済む。一人はかわいそうや。でも、もううちは行かないかん。
「もう、行かな」
 菜摘の問いかけは、独り言に留まった。何の変化もない。遠くで、ドアの開く音が聞こえる。
「菜摘、行くわよ」
 母親の声で、菜摘はガラスから手のひらを離すと立ち上がった。すべてのスイッチを消す。脱衣所から廊下にでた。母親が玄関ドアを開けたまま、菜摘を待っている。
「行くわよ」
 もう一度促す声に、彼女は頷いた。部屋の間取りを目に焼きつけようと、見回しながら短い廊下を歩く。玄関にたどり着くと、母親が外にでた。菜摘は靴を履いて、ドアに手をかける。振り返った。
 もう二度と住まない家だ。
「バイバイ」
 この地に残すものたちに、そっと最後の言葉を告げた。
 せめてさみしい思いはしませんように。そう思いながら、菜摘は夕陽の照り返す世界を閉ざす。共有の渡り廊下から見た彼女の空は、オレンジに薄い蒼を点していた。


 
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