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NO.28 果実の冠

05 20, 2011

 東京区内にないものかと問われたときに、探せばどうにかあると言えるものが、この鬱蒼とした林の楽園だった。公園という名で保護された大地は、空振りに終わった入梅の中で途方もない太陽光を吸収し、木漏れ日を生み出している。その木々の営みは、都会であれ田舎であれ大きく変わることはない。咲子が息を吸えば、腐葉土の匂いと苦味のある木の蜜が融けあう不思議な香りに包まれる。独特な木々の気配は、少女時代以上に懐かしい何かを思い出させるように取り巻いていた。
 自然の深い場所に行くことは、都会暮らしに慣れた咲子にとっても珍しいことではない。自分でわざわざ休日にあわせて行く気力はないが、それこそ都心でも皇居や神宮がある場所は人の手が入っているとはいえ、自然が育んだ緑に溢れているのだ。
「サキちゃんさあ、」
 自分の少し先を歩いていたはずの真奈美が、いつの間にか一歩後ろで手元を覗いていた。暦の上では夏至を越えたばかりの微妙な頃合いだが、真奈美は涼しげなロングワンピースを着こなしている。暦で判断するより、現状の天気と気温に素直な性質なのだろう。
「なんかあったの?」
 下を向いて画面を見る咲子に、彼女は言葉をかけた。サイクリングロードも兼ねた散歩道で、できることはあまりない。花々よりも緑が多い公園だ。色彩豊かだったろう春はとうに過ぎている。咲子は自分の携帯電話を真奈美に見せた。液晶に映っているのは、漠然とした天気予報だ。
 今日は女友達が寄り集まって、木陰でピクニックをしていた。昼食を終えた時間からは、各自好きなことをして楽しんでいる。咲子と真奈美を取り巻く友人たちは皆仕切り下手で、咲子か真奈美がいなければピクニックの日取りもまとまらないほどである。ピクニックがしたいと言い出したのは真奈美で、友人の数人が賛同したことから決行された。
 ピクニックとして組まれた唯一の行程は其々手作りの食べ物を持ち寄ったランチだけだ。その時間を過ぎ、今はバトミントンをはじめる者もいれば、シートを陣取り貴重品管理がてらの座談会を開くメンツもいる。咲子と真奈美は散歩を選んだ。二人ははじめから連れ立っていたわけではない。先に一人で散策に出かけてしまった真奈美を、公園の奥で咲子が見つけたのだ。
 携帯電話画面に記された三〇℃という数字に、そこまで温度が高いように感じないけど、と、真奈美が言った。
「風がまだ涼しいからかもね」
 咲子は、携帯電話をパーカーのポケットに戻しながら応えた。昨晩冷えた大気の名残が大気の中にくすぶっているのだろう。日差しの強さは仕方ないとして、今日は日暮れまで外でぼうっとしていたいほどの天気だ。ずっと続いてほしいような天候だが、ずっと続いてしまえばいずれ渇水して大変なことになるだろう。
「それでサキ、良いもん見つけたの」
 携帯電話を覗くことがメインだったわけでもないらしく、真奈美はもう一度名を呼んで「久しぶりに見たんだけど、知ってる? 」と、右手を咲子の目の前に差し出した。緩く握られていた指が開いて、手のひらに乗っていたのは、黒ずんだ小さな実だ。単独で散策していたときに摘んだのか拾ったのか、熟れた粒を見下ろして咲子はその名を思い出した。
「コレって、……桑の実?」
「そうよ。まだ食べてみないとわからないけど」
 咲子が指で摘まんで空に透かす。濁った黒は果実の紅に変化した。
「これ食べられるの?」
「食べられるわよ。昔食べなかった? 学校の通学路とかでよく生えてたよ、うちの地元は」
 真奈美がきょとんとした顔を咲子に返す。お互い上京組で、出身県も同じである。しかし、咲子と真奈美の学生時代の遊び方は大いに違っていたようだ。
「生えてても食べなかったわよ」
「え、そうなの。おいしいのよ、桑の実って。よく山に遊びに行ったときに、おやつにしたもんよ」
「私はさすがに山の中で遊んだりはしなかったわ」
「そう? 確かに咲子はそんな遊びしてなさそうだけど。うちは男子と一緒に野山を駈け巡ってたのよ。男子泣かせたり一緒に探検ごっこしたりして」
「ちょっと真奈美、男子泣かせてたの?」
「だって勝手に泣くんだもん。ほら、オトコの器を鍛えてあげてたのよ」
 呆れた咲子の物言いにも、平然と真奈美は返答する。真奈美の物怖じしない性格は、その時代から育まれていたのかもしれない。咲子の手のひらにコロンと乗った桑の実を見て、彼女は立ち止まった。
「なら真奈美、今も食べる気あるの?」
 真奈美は隣を歩く咲子を見た。
「……そりゃあね、桑の実は毒ないの知ってるし」
「なら、食べないの? 真奈美、ほら、いいだしっぺ」
 咲子が紫黒色の実を指で摘んだ。今度は真奈美が手のひらを返す。果実が落ちて転がった。
「そうしたら、味見してみようかな」
 手元の果実を、真奈美はそう言いながら躊躇いなく口腔へ放り込んだ。甘さが孕んでいるか不透明な果実を、彼女が噛む。途端に真奈美の眉間に皺が寄るのを見て、咲子は彼女の潔ぎよさに感嘆した。普通なら怖気づいてしまって、口に含んだとしても、果実を噛み潰す勇気を出すのには時間がかかるものだ。
「どうなの?」
「……」
「やっぱり、まずいの?」
 咲子の予想では、強い酸味をはらんでいると踏んでいた。真奈美は黙々と味を確かめ、喉を鳴らした。
「いや、甘い。これ、おいしいよ」
 真奈美が破顔する。咲子は半信半疑な表情で彼女をまじまじと見つめた。
「本当に甘かったの?」
「この桑の実、すごい熟れてるよ。そうか、あそこ穴場なんだ」
 咲子の疑問形を取り払った回答をして、真奈美が指した。その真奈美の指は、今立っている道を逸れて西の緑深い方角に向かっている。その指は桑の実に汚れ、かすかに色が付いていた。そして、黄色い何かがひらりと落ちて止まった。
 二人の視線がすぐ指の先に向かった。
「ね、真奈美、」
 揚羽蝶だ。咲子の声で、真奈美が立ち止まった。横から、もう一頭が浮遊してくる。まもなく真奈美が歩きだした。揚羽蝶は彼女から離れない。
「サキ、このチョウ歩いても留まってんだけど!」
 驚きとおかしさを表情に含んだ彼女が、咲子を見た。引っ込めることのできない指先に、揚羽蝶が止まっている。林の中で指に蝶を乗せている真奈美は、まるで森の民のようだ。もう一頭の揚羽蝶が彼女の周りを彩る。
「……すごい、あり得ないけど真奈美らしいというか。でも、アゲハをこんな近くで見たのははじめて」
 感嘆した咲子の言葉に、立ち止まろっか、と、真奈美は足を止めた。揚羽蝶を間近で見る機会は少ないのだ。数分も経たず、指先に留まっていた蝶は彼女から離れた。真奈美は無意識に息を詰めていたらしく、ホッとした顔で手を降ろした。それでも、二頭の蝶は彼女の元を去っていない。再開した歩調に彼らがついてくる。
「なんか完全に蝶に好かれちゃったなあ」
「あんた、普通好かれないものよ」
 真奈美が動物から異様に好かれることは前々から知っている。ベンチで座っていたときに、野良猫が真奈美の膝に乗って眠り込んだこともあった。しかし、虫にまで好かれるとまで咲子も思ってはいなかったのだ。真奈美が揚羽蝶に好かれていた指先を、鼻に近づけている。微かに果実の匂いが残っていたのだろうか。
「まあ、蝶は毒ないし。おまえたち、一緒に桑の実のとこ行くかい?」
 彼女が微笑んでひらひらと離れない蝶を見る。真奈美は毒さえなければ、動物も植物もウェルカムのようだ。まとわりつく対の揚羽蝶に、彼女が口元を緩めて声をかける。その様子は被写体として美しいが、現実味はない。真奈美といれば、時おりファンタジーのような現象が起こるのだ。咲子はそれを隣でよく目撃している。彼女の傍にいたいと思ってしまうのは、彼女の元で起こる出来事を見たいからでもあった。一緒にいて飽きないのだ。
 自転車二台が、散歩道の隣に併設されたサイクリングロードを通る。一台は子ども用で、少年が振り返り「チョウチョだ」と、声を発したのが聞こえてきた。通り過ぎた彼から見れば、真奈美はただならぬ人間に見えたのかもしれない。被写体としても、彼女は背が高く透明感のある雰囲気がある。しかし、彼女自身は周囲の受けている印象にまったく気にしていないのだ。
「咲子、ねえここ、ここを右に曲がるわけ」
 彼女はそう言いながら曲がり角から降りる坂を示した。頭上を覆う木の葉から、空がよく見えるようになる。咲子は天を仰いだ。太陽の日差しが肌にあたる。植物を育てる目映い光だ。草木の匂いは無意識に深呼吸をさせる。そして、あっけらかんとした青空はただ在ることのすばらしさを教えてくれる。身体が自然の凄さに感服するのだ。
 咲子が、連れ添う真奈美に目を戻して笑った。真奈美がなに笑ってんの、といった風情で見つめている。彼女はまだ揚羽蝶を二頭も連れているのである。
「真奈美はきっと、日なたのにおいがするのね」
 咲子の言葉に、彼女は自分のワンピース生地を摘んで嗅いだ。
「どこが? 変なにおいしてる?」
「そういう意味じゃないわよ」
 咲子は揚羽蝶を見やる。彼らが真奈美を恐れない理由を少し理解できる。動物や虫に好かれるのは、真奈美が単に人畜無害な人間だからではない。彼女はその存在だけで、樹木のような安心感を与えてくれるのだ。
 同様に、自然体の彼女は人々にとっての森に似ていた。彼女がいるだけで、大きく息を吸って吐いて微笑むことができる。本人だけがわかっていないのだ。
 真奈美がいることで森林浴のような、安心感を得ることができる。それは、彼女をとても稀有な存在に見せていた。そのせいで、昔から人に過剰な依存をされ、望まないところでもめ事が起きたことも一度や二度ではない。良いように真奈美を利用しようとする人もいて、彼女は何度も痛い思いをしてきた。その度、樹木の節のように立ち上がっていたのだ。
 咲子の言葉が比喩だと気づいたらしい真奈美が、それって誉めてるの? と、歩みを止めて訊いてきた。
「誉めてんのよ。それで、秘密のポイントはここなの?」
「うん、咲子も来るの?」
「そのつもりだったんだけど。ダメなの?」
 生まれながら森の民のような真奈美が、おいしそうな表情をして桑の実を食べていたのだ。その味を咲子も確かめてみたいと思った。ベリー系は咲子の好物だ。食べたことはないが、桑の実も同系統であるのは確かだろう。
「ダメじゃないよ。咲子もスニーカーだね、よし、」
 真奈美が「ここからを中に入るんだ」と、言いながら道路から枠を外れて柔らかい土を踏んだ。嬉しそうにスニーカーをはいた踵がはねる。彼女から、ようやく揚羽蝶が離れた。公園内の通りを歩く人々の姿は遠い。真奈美が果実で染めた手をのばした。
「秘密の花園へようこそ、お嬢さま」
 咲子が彼女の手を取って踏み入れる。豊かな土壌がふわりと揺れる。循環して育み続ける土地に、木漏れ日が点々と続く。この大地と日なたが、甘い果実たちを生み出すのだ。はにかんだ真奈美の手は温かく、道を外れてからも咲子の指を離さなかった。

 
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