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No.56 アイデンティティー

06 23, 2012

 スパイシーで独特な香りに、絢乃は満たされた心地で息を吐いた。手にしている透明なグラスは薄茶に染まり、外の寒さを忘れさせてくれる。アンティークな調度を誂えた店内ではリズムのゆっくりした音楽が響き、優美な印象を際立たせていた。メニュー価格は立地が良いせいか少し割高であるが、紅茶や珈琲を頼めばポットがついてくる。絢乃はデトックスハーブティーと名づけられたハーブティーをかならず注文していた。この飲み物はこの店舗でしか味わえない。
 絢乃にとって、ちいさな贅沢とは、平日の午後をお気に入りのカフェテリアで過ごすことだ。最近は自宅から自転車圏内の此処が贅沢な場所だった。仕事も人間関係も考えず、ただ一人で好みの空間を堪能する。人の少ない時間帯を選んで、ときどき店内を独り占めする気分に浸る。買い物に出かけるより気楽でお金もかからない。
 今時間のカフェテリアは、いくらか人が入っていた。いつもならば、お客さんが私一人だけだったらいいのに、と、心のなかで思ってしまう絢乃だったが、今日にかぎってはそう思わなかった。ファンデーションのノリが抜群によかったせいだろう。化粧がうまく仕上がると途端に人の気配が恋しく、外へ出たくなる。彼女はこのカフェテリアを訪れる前から上機嫌だった。
 カラン、と、出入り口で音が鳴り、絢乃は目を移す。背の高い男性が入店してきた。服装のセンスがいい。絢乃はデトックスティーに目を戻したが、胸のうちで男の様子を気にしていた。彼は一人のようだ。顔がけっこう好みだった。店員と話して席を選んでいる。絢乃の隣のテーブルに腰を落ち着けたので、ドキッとして、ちらり、彼を見直した。やはり絢乃の好みの顔だった。
 今日はほんと、良い日だあ。
 一人身でいれば、自然と想像は豊かになる。メニュー表を見て店員を呼ぶ彼の声は、思いのほか高い。聞き耳を立てながらカップのなかの飲み物を口に含んで、窓の外へ目を泳がせる。店員にたいして、テラス席が好きなんだけど冬はやっぱ寒いよね、と、軽い雑談も加えている彼は、何度もこのカフェに訪れたことがあるのだろう。親しみやすさは好感に値する。絢乃も、このカフェをはじめ気に入ったのはテラス席があるからだった。
 それは絢乃の視線の先にある。低層ビルの二階にあるカフェは、階段に登ってすぐのところに二人がけのテラス席が三つあった。マンションのベランダに設置したようなこじんまりとしたつくりだが、それがまた妙に心地よい。冬でなければ絢乃もかならずテラス席を選ぶのだ。景観はそばに鉄道の高架線路があるためよくないが、ベランダ壁につたう葉や緑のプランターはそれを気にさせない。カフェ自体が隠れ家のような雰囲気であり、夜ともなれば風景は暗闇に溶けてしまう。
 店員が飲み物を持って戻ってきた。隣に座っていた男性は、手帳を広げながらスマートフォンを操っている。仕事中なのかもしれない。メニュー内容を聞いていなかった絢乃は、届けられた品をさりげなく見てまた外へ視線を向ける。彼もフレーバーティーを頼んだようだ。色味的には絢乃と違いそうだ。
 他人であろうと、好みのタイプがそばにいれば少し気が引き締まる。だが、絢乃にとっては楽しい緊張感だ。隣の彼はどんな仕事をしているのだろう。どういう経路でここを訪れたのだろう。考えるだけでも楽しい。もう一度、カップにくちびるをつける前に彼をさりげなく見よう。そう思ったところで、屋外の不審な動きに気がついた。大きなガラス窓から高架コンクリートが見える。そこで、何かが動いている。絢乃は気になって、室内から視線を覗くようにして高架を見た。
 鉄道専用のところに、人がいる。壁から上半身が出ていて、見た感じ女性のようだった。高架のなかは線路だ。人がいるのは不自然な場所だった。駅のホームはもっと先にあるのだ。作業服でもない一般人が歩いて許されるところではない。絢乃は不可解な状況を見つめた。女の身体が傾き、全身見えるようになった。彼女は壁をよじ登ったのだ。絢乃は硬直した。
 飛び降りだ。高架と地上は三階建て以上の高さがある。それを乗り越えて落ちれば確実に死ぬだろう。
 絢乃は目が離せなかった。案の定、女は真っ逆さまに落ちた。あっという間に視界から消える。一部始終を見てしまった絢乃は、かろうじて両手で持っていたカップをソーサーに戻した。ガシャン、と、大きい音が鳴る。指が震えていた。
 人の飛び降りを見てしまった。慌てて周囲を見る。店内は見る限り一〇人もいない。その誰もが気づいていないようだった。目撃したのは絢乃だけなのだ。すごく嫌な気分になった。もう一度、外の様子を確認する。何も代わり映えしないが、道路上では今しがた飛び降りた女が、倒れて血を流しているに違いない。まもなく救急車が来るだろう。大騒ぎになっているはずだ。そのなかを、絢乃は歩きたくない。
 騒ぎが落ち着くまで、このカフェにいたほうがいいかもしれない。ポットを手にして絢乃は混乱する頭を静める策を考えた。動揺から手の震えが止まらない。食器の音をカタカタさせながら、どうにかポットの中身をティーカップへ収めきった。
 たった今起きたことを忘れたい。早く忘れたい。しかし、勝手に脳裏で再生される。女が落ちた。飛び降り自殺を見たのははじめてだ。しかも、目撃してしまったのはこのカフェで絢乃だけなのだ。最悪だった。日常のままでいられなくなった彼女は、下階の騒ぎを待った。聴こえてくるはずの救急車の音を、耳澄まして探る。カフェミュージックが邪魔になった。だからといって、外に出る勇気はない。
 いつまで経っても、日常は変わらなかった。絢乃は首を傾げて、生まれた疑念に自問した。女が高架から落ちたことは明らかだった。スマートフォンで時刻を確認すると、半刻が経っている。まだ解約に悩んでいるガラケーを開いて見ても同じ時刻をさしていた。すっかり冷めたフレーバーティーを飲んで、考え直す。幻覚だったのか。
 外に向かって彷徨っていた視線から、ふと隣を見る。整った顔立ちの男が座っていたことを完全に忘れていた。彼が、下ろしていた視線を上げて絢乃に反応する。彼女は途端に居たたまれなくなった。挙動不審な様子を彼に見せてしまった。潮時を感じて、荷物を持つと立ち上がった。飲み物はまだ少し残っているが、冷めたお茶をこの気分で飲みたくない。
 すっかり気が散った絢乃は、そそくさと会計を済ませてカフェを出た。すぐ、二階から道路を見下ろす。何もないことを確認して、とても複雑な気持ちになった。おかしい。確かに女が飛び降りたのを、この目で見届けたのだ。出遭いたくもない事象だが、幻覚でも気持ちが悪い。
 絢乃は困惑しながら階段を降りた。やはり何の痕跡もなかった。電車が通る音がして、顔を見上げる。変わらない現実に少しずつ混乱していく。女が飛び降りることもなく、そもそも女など存在していなかったと思い直すべき状態だった。絢乃は公道へ足を踏み入れて、ひとつの仮説を新たに導く。
 霊の仕業というのも有り得る。以前、駅に飛び込み自殺した女が化けてでたのかもしれない。それはそれで、不吉なものを見たことになる。
 どれも納得できる考えに至らない。不安を引き連れた絢乃は、顔を引きつらせる。道路の真ん中に視線を流せば、何かが落ちているのに気がついた。女の飛び降りた地点から、少し駅のほうに寄っている。一方通行が多く、車も人の通りも少ない道で、絢乃は平静を装って気になるものに近づいた。書物のようだ。いつもならば見てみない振りをする絢乃も、このときばかりは手にとった。自分が先刻見た不吉な現象に、確かな感触が欲しい。拾ったものは、文庫本で間違いない。しかし、表紙には何も書かれていない。 彼女はその場でページを開いた。内表紙には、文字が印刷されている。月村彩子。どこにでも居そうな名前だった。さらにページをめくれば、生まれた日時と様子が書かれている。彼女の物語なのだろう。
 大きな警告音が鳴った。絢乃は驚いて顔を上げ、目を見開いた。
 目の前に、自動車が突っ込んでくる。慄きのあまり目をつぶった。何が起こったのかわからなかった。わからないまま、彼女の身体は世界を変える。挙句には、月村のように書物となって過ぎた車のそばに転がっていた。
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