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NO.62 甘い水と蛍

10 13, 2012
 川はキラキラとせめぎあいながら下流をたどる。私の頭上高くで、まんまるの月が夜空を照らしていた。集落から離れ人工灯は薄く、夜の中に私は溶けている。
 しゃがみこんで川岸の向こうを見つめて、甘い吐息を洩らした。崖に近い森が同じように夜に溶けていた。私の心を奪った一点は動かない。だから、ここで今日も見つめているのだ。太陽が出ているうちは、追憶を辿るように慣れ親しんだ家並みを眺めて歩いたけれど、そうしたことはそろそろ潮時だとわかっていた。
 私が胸をときめかせているのはただひとつ。それはこの夜の川の先にある。泳げばどうにか渡れる川だけれど、私はここに留まっていた。どうせ、もう宛はないのだ。次のステップを踏む方法を私はなぜか忘れてしまっていた。それよりも、大切だったはずの感情がぬけ落ちている。
 小石と小石が圧力ですれる音が近づく。それは人の足跡のようで、私もその珍しさに久しく視線を動かした。この時間帯に、ここらを歩く町の人はいない。夜の森は近づくほど危険が増すと皆わかっているからだ。
 歩いてくる人は、すぐにこの土地の者ではないと知れた。スカートが揺れている。女性のようだ。私はまた視線を一点に戻して、瞬きした。あ、ようやく見えた。こちらに視線を送っている。
「隣、いい?」
 すぐそばまで来た女性の声が聞こえて、私は視線を川の先に預けたまま頷いた。彼女を見るよりも今はとても大切なことがある。隣で女性がしゃがんだことは感じとることができた。
「あ!」
 そして、驚いた声を彼女は発した。私が無視したままでいると、ちいさな声で「んー、そっか」と続けられる。
「あそこの蛍、きれいだね」
 キラキラとうごめく水面へ向けて指が伸びた。示すのは私が見つめる一点だ。川の向こう岸に、ぽうっと輝く蛍が数匹ずっと飛び交っている。ただ、本当は蛍の季節じゃない。羽化するには早すぎる。現に私たちは厚手の長袖を着ていた。
「ここはとてもいいところね。穏やかでやさしくて。私、旅行で今日ここに泊まりに来たものなんだけど、温泉もあるし、ほら、今日は満月がとってもきれいだから散歩がてらにちょっとうろうろしてみようと思って。この川岸がずっと続いてるものだから」
 なにも答えない私に向けて、独り言のように話している。こんな辺鄙なところへ泊まりにくるひとも珍しいが、山をひとつ越えれば有名な温泉郷もある。流れついてきたのだろうと思った。
「とりわけて、この川の向こうはとても美しい場所ね」
 彼女の確信に満ちた言葉を、私はとうとう拾うことにした。本当は蛍もなにも実在はしていないのだ。
「向こうにいるひとが見えますか」
 溶けた体から生み出された声は、きちんと人間になっていた。隣にいた彼女が目を見開いて私を見る。そして、頷いた。
「もう、しゃべれなくなってると思ってた。まだ話せるのね。向こうにいるかた、うん、見えてる。白に青の模様の着物みたいな服を着てて」
 彼女の口にしたことはどれも的確だった。衣服のような白と青は闇の中で淡く、あのひとの周りに蛍が揺れている。
「そうです」
 彼を何度見ても私の胸ははねる。目が離せなくなる。たぶん、恋に落ちてしまったんだと思う。彼は現れたり現れなかったり、少し動いたり視点を留めたままだったり、こちらに端正な容貌をさらしている。その彼の顔が、猛烈に私の好みだった。
「うん。それで、あなたは、なんていうか、……もう、この世のひとじゃないのね」
 私は視線をそらさず頷いた。だから身体は夜に溶けているのだ。日中も稀薄だ。私の肉体はとうに離れ、何日も生前の思い出になった土地を巡った。自分の葬式が行なわれた大きな実家の前にも立った。不思議と何の感傷もわかなかった。
 泣いている友達、神妙な大人たちの顔、門扉を出入りする人々は私の身体を抜けて通過し、私はただそれを眺めていた。広い家の中には絶対に泣いている母親と祖母と、幼い弟と妹がいる。でも、その姿を見たいと思わなかった。今生の別れになるとわかっていても、その門をくぐる気にはなれず、私は私の名が書かれた看板に一瞥して黒い服の人々と別れを告げた。
 私が死んでしまったという事実は受け入れている。ただ死の先に、これほど「考える自分」というものが残るとは思いもせず、生前に死んだら何処へ行くのか、どうなってしまうのか、と考えていたことが本当に死んでバカバカしくなった。生きている皆に教えてあげたい。実際は肉体が死んでも、私自身は残っているということだ。
 でも、死んでみて、家族への想いとか友情とかそういうものが全部抜け落ちてしまうことを発見した。人は死んでしまうと、大切なひとたちへの想いも消えていくのか。人間とは最期まで都合のいい生きものだ。そんなことを思って、少し悲しくなった。
 通夜を点す外灯を遠くで眺めた夜に、彼を見つけた。行く宛のない私が、昔よく水遊びした川を上流に向けて歩いているときのことだった。肉体があったときは危険すぎて行けなかった、川の源流を宿す森へ一度登ってみようと思ったのだ。持て余した空虚な時間から、どう抜け出せばいいのかわからないのなら、生きている間にしたかったことをできるかぎりしてみようと考えて川と平行に歩いた。そして、蛍が目に留まった。
「ねえ。あのかたのこと、どう思ってる?」
 隣の女性が、少し声色を上げて訊いてきた。私がこの世のものでないことを知っても怖気ない。当たり前のように接するから、私も自分の立場を一時忘れて口を開いた。
「……すごく好きです。目が離せなくなるくらい」
 言葉にして、胸が途端に痛くなった。彼のことが好きなのだと改めて自覚した。ああ、これがよくいう一目惚れだったかも、そう唐突に思った。
「うん、わかる」
「本当に、すごく好きなんです」
 会話を成立させる気はなかったのに、もう一度言葉を返していた。
 もしかしたら、私は誰かと話したかったのかもしれない。死んでしまってから、道を歩いても生前知っていた人とすれ違っても、誰も私を見ず声もかけない。だから、私は言葉もなく瞳に映るものに何の感慨もなく、乖離してしまった世界にゆらゆらと揺れていた。時が動くように思えるのは、夜のこの場所だけだ。彼を見つめていると退屈さも宛のない空虚さも溶けていく。
「そうなんだ」
「顔がものすごく好みなんです」
 彼女の相づちに、私は彼の最も好きな部分を付け加えた。まだ川の向こうに佇む姿しか見たことはないから、あと好きなところは雰囲気と衣服のセンスと……やっぱり顔だ。
 隣で、「ええっ!」と、驚きが響いた。
「顔って! はじめて聞いた。へえ、顔かあ、それはいい着眼点っていうか。なんか、うん、おもしろいっていうか、ね、顔って、どんな感じ?」
 明るい声で女性は感想を洩らして、私に改めて訊いてくる。だから、彼のいる方角を見た。生身の女性がやってきても、彼は消えず視線を私たちのほうに向けたまま動かない。昨日と同じように様子を伺っているみたいだ。その顔は見飽きないほど美しく、胸の高鳴りと不思議な安心感を生み出す。
「どんなって、すごくきれいな顔してるじゃないですか。超イケメンですよ。そう見えませんか?」
 個人の好みはあるかもしれないけれど、十人の人が見たら八人の人くらいは目を奪われるくらい容貌が良い。しかし隣の女性はちいさく首を傾げた。年上に見える彼女の好みはもっと男くさい感じなのか、それとも視力が悪くて顔までよく見えないのか。
「うーん、ごめんね。実は私には見えないんだ、あのかたの顔。狐みたいなお面被って見えるの、いつも。だから、わからないんだ」
 推測はどちらも違っていた。私は意外な返答に、そうなんですか、と、つぶやいた。彼女には今もお面を被った状態で彼が見えているという。私とは視界が違うということだ。彼女には、一枚なにかしらのフィルターがかかっているのかもしれない。
「でも、あなたには彼の顔が見えるのね。じゃあ、私がまだ生きてるから見えないかな。どうしても皆さん、顔だけは明かしてくれないのよねえ。興味はすごくあるんだけど、」
「残念です。すごいイケすぎて、すぐ惚れますよ」
 私の言い方に、わあ、イケすぎるってますます気になる、すごい羨ましい、と笑顔を見せた。まるで私も生きているような心地になる。
「それで、まだ、行かないの?」
 日常会話が続けられた。私は、切り替えられた話題にきょとんとする。それは、生きている人間には知りえない目的地の話だった。私もよく知らない。ただ、死んでみて、どうやら行くところがあるのだという認識が無意識下でわいていた。死者の魂はどこかに行くらしい。
「あなたならスムーズに行けると思うのだけど、なにかほかにあった?」
 未練、という言葉を女性は隠した。私にそんなものはない。家族や友達への愛しいと思う気持ちも溶けてしまったのだ。残っているのは、……嘆息した。
「……行きかたがわからないんです」
「そっか」
「たぶん知ってたはずなんですけど」
 さっきは彼への想いを吐露して、恋心を自覚した。今は不安がかたちを表わす。言葉にして、失っていたはずの感情を取り戻す。ずっとこのまま中途半端のまま、ゆらゆらこの町に留まり続けるのは嫌だ。
 でも、留まり続ければ、彼をずっと眺めていられるのだろうか。
「まあ、それどころじゃなく、恋、しちゃったんだもんね。恋したら忘れるよね」
 私の思うことを読んだように、女性がつぶやいた。納得している素振りだった。彼女の言葉に少し救われて頷く。
 なら、想い遂げなきゃね。その言葉とともに私も川の向こうを見た。
「もう、あんなところでずっと戸惑ってないで、早くこっちにくればいいのにね。はじめての経験だったのかしら。もう、………、よっ、プレーボーイ!」
 少し大きな声が川を渡れば、森がざわついた。まるで彼女の言葉に応答したようだ。私は、隣の人物が普通でないかもしれない、と、ようやく思いはじめた。そもそも私のことが見えている時点で、霊感とかそういった強い能力を持っているに違いない。それに……今しがた彼の名前を呼んでいた気がした。ただ、私には聞き取れない風のような音だった。
 彼女の視線を感じて首を動かした。その瞳に夜の森が映っている。
「ちょっとシャイなところあるみたいだけど、やさしいかただから、さすがにあと少しで来るんじゃないかな。あんなところで様子見してても埒明かないと思っているはずだろうし。ちゃんと連れて行ってもらってね、いろいろごねて。あのかたはちゃんと、知ってるから。最後までエスコートしてもらって。大体ここで女の子待たせるなんて、罪なオトコよねえ」
 人間じゃないし性別なんて、あってないようなものだけど。
 彼女はそうして、はじめて私のような人間の霊体を見たと言い、この土地に来て本当によかったと微笑む。
 視線をまた水面に戻せば、蛍が一匹ゆっくり川を渡ってくるのが見えた。
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