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No.65 別れ道

12 26, 2012
 咲子は一度だけ、病床の彼女に問うたことがある。
 空は高く羊雲が流れていて、指差された窓の外には街並みが広がっていた。病院は高台にあって、奥に薄く細い海との境界線が引かれていた。彼女はこの風景が慰めになるとときどき口にしていたけれど、小学生の咲子にとって慰めの意味合いはわからず、漠然と両親の愛する信仰神を思い出して頷いた。
 そして、同じように咲子も彼女のそばで指を差した。
「マリおねえちゃんは、なんで神様が空をあの色にしたか知ってる?」
 日中は空色になって、夜は黒に近い不思議な色になる。咲子は大人になってこの記憶を繰り返すたびに、子どもらしい問いかけを自分もできていた頃があったのだと神妙な気持ちになる。物心ついたときから、親の首に下げられた十字架に違和感があった。咲子にとってあれらは信仰の対象にはならず、教会の日曜ミサに参加しながら歌と言葉の美しさだけに耳を傾けていた。
「しらない」
 素っ気ない回答に、咲子は背筋を伸ばして彼女を見た。枕にもたれたロングで質感のない黒髪は二つ編みにされて、彼女が動くたびに小さく揺れた。退院期間より入院しているほうが長く、彼女の母親は娘の病気が治りますように、と、咲子の両親を連れだってせっせと教会へ足を運んでいた。彼女の母親と咲子の父親が姉弟の関係だ。咲子と彼女は九歳くらい離れた従姉妹同士で、病院では姉妹として扱われていた。
「でも、咲子。神様が空の色を一日何度も変える理由ならしってるよ」
 咲子と二人きりのときは、滅多にしゃべらないという彼女も自発的に話した。あの子は気難しい、そっとしておくかぎる、という大人たちの言い草に咲子は首を傾げ、ただ黙っていた。
 早くから生み親たちを、親族としてより他人に近い感覚でみるようになったのも環境によるものだろう。聖書を読んでも、彼らと解釈がまるきり異なっていた。咲子は彼らの中で生まれながら異端であり、彼女も別の意味で異端だった。
「どんな理由なの?」
 問いかければ彼女が咳き込んだ。ひどく辛そうな様子に咲子が不安な表情をすると、呼吸を取り戻した彼女はくちびるの端を持ち上げる。そして、ベッドの端に立つ咲子の頬に指で触れた。いつも冷たく白い手だ。
「気にしないで。同情を引いてるだけよ」
 わざとらしく言う意味を、咲子はまだ理解できなかった。大きい枕にもたれた彼女がゆっくり横向きになる。
「空の色が変わる理由」
「うん」
「それは、わたしのためよ」
 瞬きをする咲子に、彼女はもう一度言った。
「わたしを飽きさせないように、神様が空をたくさんの色で染めかえるの。全部わたしの好きな色で」
 だから、きれいなのよ。
 そう言った彼女は目を細めて、でも神様よりわたしは咲子のほうが好きよ、と、甘い笑みを浮かべた。


 どんな絵や写真よりも、生きているもののほうが結局、一番美しいの。


 手元にある十字架を掲げてみれば、長い縦線の裏にイニシャルが入っていた。咲子はこの持ち主との記憶を思い返しながら、すぐ入っていた小箱に戻す。引越しの荷解き中に見つけてしまった。懐かしいものだ。
「咲子、待って。なにそれ」
 蓋を仕舞おうとする手を、言葉で制された。咲子は隣に座る真奈美を見た。
「親の?」
 彼女の重ねてきた問いに、小さく首を振った。真奈美は十代からの古い付き合いだ。咲子の育った生活環境も知っていた。ただ、この十字架が咲子の手に落ちた経緯は誰にも話したことはない。どう話せばいいか考えながら、口を開く。
「親ではないけど、……親族の形見というものかしら」
 少し奥で食器箱の荷解きをしていた後輩の理沙が、四つんばいになって咲子の側にやってくる。緑を基調にしたアンティークなロザリオに惹かれたのだろう。実際、これは咲子の両親と伯母が血まなこになって探しているものだった。今はもう諦めているかもしれないが……咲子が持っていると知れば、気が狂ったように家へ押しかけてくるはずだ。
 ピンポーン、とインターホンが鳴った。咲子の新居を知る者で外出中だったのは、ただ一人だ。かすかにドアを開ける音がして、すぐ佳菜がビニール袋を提げてあらわれた。隣に座った理沙が笑顔になる。
「みんなの、買ってきましたよ」
「おつかいご苦労様」
 咲子の言葉に佳菜は頷いて、理沙の隣に座った。それぞれのペットボトルを渡して、自然と休息時間がはじまる。
「カナ、それ新作?」
「うん。リッちゃん飲んでみる?」
「あ、あたしも飲んでみたい」
「じゃ、真奈美さんも」
「ラベルはかわいいけど、味どんなんだろうね」
「うーん、知らない。あと、チョコも買ってきたよ」
「気が利くね、カナちゃん」
 咲子のすぐ側で、三人が普段と変わらない会話を重ねている。今の穏やかさと、十字架を負った過去の鋭利な穏やかさを比べながら、咲子はもう一度ロザリオを見つめた。
 彼女はマリアという名前だった。生まれ持った内臓疾患は結果的に治らず、彼女は十代で逝った。咲子は物心ついてから死ぬまで、マリアの精神安定剤の扱いだった。
 日曜の午後によく、咲子は彼女と二人きりとなった。あの時間を今も厭うことはない。ロザリオは晩年にもらったものだ。彼女に、咲子だからあげるのよ、と、言われた。
 そして、ひとつだけお願い事をされた。
「亡くなった人に、触ったことある?」
 突然発された問いかけに、雑談をしていた三人が一斉に咲子を見た。感性の鋭い子達だ。十字架の一件に絡むと気づいたのか素直にロザリオへ集中して、真奈美と理沙は首を振った。
「わたしは、あります」
 佳菜が答えた。
「手を触ったことなら」
「そうなんだ。私は、手ではなかったけれど」
 手のひらに乗せた十字架をなぞる。細く冷たい。咲子は飾られた白百合の記憶を心に描いた。教会の外壁もガラスから洩れる光も鮮明だ。まるで……葬式ではなく、誓いの儀式のようだった。
「私のファーストキスね、実は彼女だったのよ」
 理沙と佳菜が同時に「えっ?」と訊きなおした。真奈美は逆に、勘よく言い返す。
「今、恐ろしいこと言おうとしてるでしょ」
「……うん。遺言だったのよね」
 嫌そうな表情をした真奈美に、理沙と佳菜が同時に首を傾げた。双子のように仲の良い二人だ。普通の仲ではないのをとうに咲子は知っている。
「二人とも訊かないほうがいいよ」
 やさしい真奈美の忠告に、咲子は微笑んだ。理沙が訊きたそうにしているから、問われるまでもなく答えた。
「彼女に、わたしが死んだらくちびるにキスしてほしいって言われたから」
 理沙が意味に気づいたのか、顔をこわばらせた。真奈美が、咲子の性格を読んで呆れた顔をする。彼女はかまわず続けた。
「それで、生き返ったら咲子を全部頂戴って」
「……で、しちゃった、って、あんた」
「だって生き返るか興味あったのよ。まだ七歳のときの話よ。あまり抵抗はなかったわね。大人にバレないかドキドキして、逆にスリルあったというか」
「うわーマジでさきこー、それないわー!」
「……サキさん、やっぱどっかぶっ飛んでる」
 真奈美と理沙の引きつった感想に、一人平然と聞いていた佳菜が疑問を投げかけた。表情を変えなかったのは、意味がわかっていなかったということではなかったらしい。
「でも、本当に生き返ったら……サキさんの全部をあげる約束だったんですよね」
「まあ、そうなるわね」
「よかったんですか」
 尋ねる言葉は真摯だった。咲子はあのときの感情を引き出した。
「……そうね。今にして思えば、すごく好きだったのかな。彼女のことが」
「泣きましたか」
「ううん、泣かなかった。泣いた記憶はないわね」
 冷静さを取り戻した真奈美が、次は不思議そうな表情をしている。
「悲しくなかったの、好きなのに?」
「なんていうのかしら。……もう突き抜けちゃってたのかな。死ぬってことがよくわからなかったのかもしれないし。でも、彼女の死に顔にキスして、起きないならいずれわたしもそっちに行くからいいかなって」
「幼い頃からすごい達観なんですけど」
「そう? のんきな発想じゃない? でもまあ、変な話、私より彼女が先に逝ってよかったのかなって」
 同時に真奈美と佳菜が首を傾げた。この台詞には、理沙が大きな反応を示してすぐに佳菜を見た。真顔で呼ぶ。
「カナ」
「……どうしたの?」
 咲子は、そんな二人をくすぐったく見つめた。
「カナ、私より先に死なないでね。絶対に。絶ッ対に!」
「……そんな約束できないよ」
「お願い! 一生のお願いだから、これだけ約束して!」
 理沙のよくない思考スイッチを押したのは明確で、同性の恋人である佳菜は困った顔で抱きついてくる理沙を宥める。それを横目に真奈美がため息をついた。
「変な話になっちゃったね、ほんと」
 窓から空が見える。彼女が白い指で差してよく眺めた配色。
「すっかり、秋の空ね」
 咲子は、そうしてマリアの十字架を仕舞った。
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