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No.76 È chiaro(エ・キアーロ)

07 27, 2013
 しとしとと雨が降る。水たまりが地面に面積を広げていく様子を眺めながら、こんな日に人を待つのも久し振りだなあ、と、真奈美は思った。先ほどまで暇つぶしに路面店をめぐっていたのだが、最後に待ち合わせのコンビニエンスストアまで行き着いてしまうと、なんだか無駄に暇をつぶしていたことがバカバカしくなってしまった。逡巡した挙句、外へ出た。
 薄暗い雲は先刻から一層夜の色を深めている。傘に小さな水滴が当たって溶ける。私がコンビニにいなかったら、そしたら電話でもかかってくるだろう。真奈美はそう思って、のんびり濡れゆく道を歩いた。
 待ち人は時間を比較的守る人だ。それでもいろんな用事が詰まれば時間は押されていく。真奈美は咲子に相談したいことがあった。本当は彼女の家でしんみり訊いてもらうのがいいのかもしれない。でも、真奈美は外のほうが好きなのだ。それに、前とある仕事を手伝ってもらった御礼に食事を奢りたかった。この近くにおいしいイタリアンがあって、おいしい赤のフルボトルがカウンターに並んでいる。そこは夜遅くまでやっていて、終電が終わってもここから咲子の家までタクシーで三〇分もかからない。
 紡がれた糸のように透明な雨と音。暦はそろそろ夏に差し掛かるが、今夜は不思議と柔らかな冷たさを残している。カーディガンを持ってきたほうがよかったかもしれない。二の腕が冷えはじめている。
 息を吐く。白いはずはないのに、霧雨の中を白がふんわり抜けていくような気がした。まだ来ないだろうか。待ち合わせ時刻を少し過ぎている。元々先走ってこの町内へ赴いたのが失敗だったか。でも、久しぶりに来たのだ。セレクトショップも多い通りもあって見回りたかった。でも、結果的には暇つぶしでしかなかった。
 パンプスを差し出して、薄い水音を聞く。外灯を反射させる水たまりから顔を上げると、闇に浮かぶ緑があった。首を動かす。公園があった。真奈美はすぐに方向を変えた。彼女は公園という場所が好きだった。誰のものにもならないやさしい空間だ。
 都心であるほど夜が深まれば静かなもので、騒がしいのは繁華街など局地的なところだけだ。都会の寂しさを紛らわすかのように燈された街灯。地上の光の波に反射された空。完璧な漆黒を纏うことなく雫を撒く。公園は静謐という名に書き換えられひんやりしている。
 孤独、という感情も久しいかもしれない。真奈美の周りには最近常にひとがいた。自分のためのオフの時間というのは、今日が久しぶりだったかもしれない。それでも、真奈美は今日もひとに会おうとしている。
 木に囲まれた小さな公園を見回して息をつく。ブランコ。シーソー。砂場。どれも最近では目にもしないような思い出の品だ。それらは、明るい時間にしか来ない幼い主たちを想いながら夜を潜めて超えようとしている感傷さがあった。
 明るい空の記憶を探るように、真奈美はシーソーの前で立ち止まる。剥げた金属に触れる。晴れていたら間違いなくブランコに乗ったのにな、と珍しい機会を与えてくれなかった雨を少し呪ってみた。真奈美は、ハッとしたように振り返った。
 誰かの声がした。ちいさな気配だ。鳴き声だ。
 みい、みい。
 にゃあにゃあ、ではないことに真奈美は少し戦慄した。猫にしてはあまりに幼い声だ。探してはいけない気がする。でも、放っておけるわけがない。目が探してしまっていた。すぐにダンボールとビニール傘を見つけた。
「……ああ、」
 言葉にならない声で、真奈美はそこへ近づいた。もう、間に合わない。見つけてしまった。
 ダンボールの中に子猫がいた。今まで気づかなったのが信じられないくらい、そこで待っていた。
「見ちゃったよお」
 なんてこった。途方に暮れて彼女は項垂れた。一匹の仔猫がいた。あちらも首を伸ばして真奈美を見つめている。どう見ても捨て猫だ。しかし、まだ懐かれていない。今なら逃げられる。夕食はイタリアンだ。自分はこの子を連れて行くわけにはいかないのだ。すぐに咲子が来て、それで別れが来て、もうきっと逢うことはないだろう。
 着信音が鳴った。のろのろと真奈美はスマートフォンを取り出した。仔猫が見上げて鳴いている。
「……サーキちゃあん! 助けてえ」
 真奈美のベソをかいたような声に、咲子が「また何があったの?」と、呆れた声色をつなげた。


 そうして、奥の木陰でしゃがんでいる真奈美を咲子は見つけた。薄い水たまりを割って向かう。何か面倒ごとを運んでくるのは、真奈美の悪いところでもあり良いところでもある。そして彼女は慈悲と現実に苛まれるのだ。そうしたところが彼女を愛しいと思えるゆえんでもあった。
「猫ちゃん、どうするの?」
 しとしとと降りしきるのは雨。咲子の声に、ようやく真奈美が振り返る。その場を離れられないこともよくわかる。
「どうしたらいいと思う?」
「それは、私が訊いていることでしょ。真奈美さんはどうしたいのかしら」
「うーん。たとえばさ、」
 そう言いながら彼女が立ち上がると、仔猫が鳴きだした。咲子もそれを聞いて、心の奥が切ない感じでくすぐられた。
「コンビニでミルク買って、温めて置いて、それでバイバイしたら、偽善になるの?」
「……あなたが偽善だと思うなら、偽善よ」
 咲子の言葉に真奈美は黙った。咲子は息を吐いた。霧雨のせいか、まるで白く溶けたように見える。そう思ったら、そうなのだ。本人が偽善だと思ったら、受けた相手が偽善だと思ってしまったら、それはもう偽善でしかない。そう思って余計な罪を背負うのだ。
 そもそも猫に、人間のすることが偽善か偽善ではないか、判断がつくわけがない。
「どうすればいいの?」
「だから真奈美、それを私に言わすの?」
 すがるような瞳。長く真奈美の友人をしてきて、ときどき見せる無垢な瞳。咲子は答えた。
「あのね。一番、後悔しない方法を選ぶのよ」
 同世代の友人なのに、彼女はときどきとんでもなく子どもの表情をする。傷つきやすいのだ。美しいのだ。生きにくいほど、彼女はどこか純粋なのだ。
 そして、その真奈美の脆いところが最も人を惹きつける。彼女を直感のまま真っ直ぐに生きさせる。
「真奈美は、後悔する子よ。絶対後悔する。悔いは、残したらダメよ」
 諭すように言った。真奈美もわかっていたはずだ。ただ、一押しが必要なのだろう。それはいつも咲子の役目だ。
「咲子ごめん」
 そう言って、真奈美はミニタオルを取り出すと、屈んで猫を取り出した。
「おうち、タクシー代、出す。っていうか、家はペット禁止?」
「引っ越してから可、よ。ラッキーね」
 すると真奈美の顔から笑みがこぼれた。
「これからが大変なのよ。わかってる?」
「うん。まず、イタリアンの予約を取り消すという気の重い作業が、」
「それは、気が重いわね。でも、命には代えられないか」
 傘を持ち直す。代えられないよ。そう強く言って、大切に仔猫を扱いながら真奈美はスマートフォンを上手に扱う。
 雨は続いていく。猫の鳴き声に、咲子は真奈美の胸元に抱える腕の中を見て微笑んだ。そして、心の中で声をかけた。
 あなたは、とても良いひとに拾われたね。
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